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比叡山の千日回峰行 

比叡山延暦寺で行われている「千日回峰行」を知ったのは、20年以上前のことである。この修業は、難業中の難業として知られている。
 千日回峰行は一千日あまり、山中から市内までの難コースを巡礼して回る修行である。多い時は80キロ、少ない日でも30キロ以上の山道を飛ぶように歩く。それだけではない。七百日を達成すると、次に九日間の「堂入り」という荒行がひかえている。九日間堂にこもって、断食、断水、断臥のまま行を続ける。断食はともかく、水を飲まず、眠らずというのは人間の体力をはるかにこえた決死の難行である。「堂入り」の前に仮葬式といってよい行事を行うのは、失敗すれば「死ぬ」と覚悟を決めるためだという。そのため、行者の懐には、首をくくるための縄と自刃するための小刀が常におさめられている。
 私は当初、この修行を懐疑的な目で見ていた。「体を痛めつけるだけで本当に得るものがあるのだろうか?」という素朴な疑問を抱いていた。
 しかし、その数か月後、千日回峰行を達成した「大阿闍梨」の記事を目にしたとき、その思いは少しずつ変わって行った。その記事では、修業の本来の目的について縷々語られていた。
 「この修業は、ただ単に肉体の鍛錬を目指すものではない。真の目的は、その人間の自我と根源的な力を涵養することにある。当初、周りの人々はこのことに中々気がつかない。『荒業だけで本当に得るものがあるのだろうか?』という素朴な戸惑いが端で見ている人々の胸中に去来する。しかし、年月が経過するごとに多くの人たちが行者の言動の変化や成長に気づき始める。何が変化したのかは具体的に分からないが、修行前と後では言動や主張、立ち振る舞いが確実に変化しているのである。それは、枝葉(肉体)だけが成長したのではなく、時代に流されない『根源的な叡智』や『自我』が同時に成長している証なのである。このことを多くの人々が意識しはじめたとき、決死の覚悟で行った回峰行が、独立した自我を確立するという畢竟に昇華する」とあった。
 この記事を読んで以来、この修行の意味は、社会に出ていく若者にも当てはまるのではないか、と感じるようになった。
 「社会」は、普遍的な人間像を作り上げてそれに人間をあてはめるという厳しい一面を持っている。「役に立つ人間は立派な人間。存在する理由がある。社会の役に立たない人間は存在する理由がない」という見方をする場合が多々ある。あるいは、「強い人間」「有名な人間」「豊かな人間」だけをもてはやす風潮がある。
 しかし、人間は誰しも、この世に生を受けた以上、ある種の役割があって存在している。すべての人は、その人が向かうべき役割を持っている。大事なことは、自分ただ一人としての生き方を通していくことである。形の上では体制に順応することはあっても他人の生き方や評価に与(くみ)しない、そんな生き方が大切なのだと思う。
 だが、この思いを貫き通し、実践していくと、様々な軋轢や辛さに直面する。心が折れそうになり、戸惑いや逡巡を抱えながら日々鬱々として過ごすことが常となる。こんな社会で生きていくこと自体が、修行そのものだといっていいのかもしれない。誰しもが少なからずそのような思いを感じることがあるのだと思う。
 そんな状況の中で、「負けない心、鋼の心」を持てとは言わない。けれど、「自分の根源的な力を涵養する一過程だ」と思って、悩みながらでも現実と向かい合ってほしい。きっと誰かがその姿を見て応援し、評価してくれると思う。同様な思いの人々が集まってシンパシーの輪が構成される。そして、しばらくたって振り返ってみると、逞しくなった自分がそこにいることに気がつく。自分の中に、社会の評価やシステムから独立した自我が生まれていることが実感できる日がやってくる。
 これは、どこか千日回峰行に似ている。あるいは、他者との関わりがある分、それ以上に過酷なのかもしれない。回峰行のように「決死の覚悟で」とは言わない。疲れたら休んで、時には泣いて、愚痴って、時には笑いながら自分の我を貫いてほしい。その時々の体制や権力に迎合しない「自分」を心のどこかにしっかり持っていてほしい。
頑張れ!そして、お元気で。


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