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比叡山の千日回峰行 

比叡山延暦寺に千日回峰行という密教の厳しい修行がある。九日間、断食・断水・断眠・断臥を行い、その後、七年の歳月を使い比叡山の山中を千日間走り回る過酷な修行である。この修行を終えた業者には、大阿闍梨(だいあじゃり)という徳の高い称号が与えられる。
 この修行は、ただ単に肉体の鍛錬を目指すものではない。真の目的は、人間の根源的な力を涵養することにある。
 当初、周りの人々はこのことに中々気がつかない。「荒行だけで本当に得るものがあるのだろうか?」という素朴な戸惑いが端で見ている人々の胸中に去来する。
 しかし、年月が経過するごとに多くの人たちが行者の言動の変化と成長に気づき始める。何が変化したのかは具体的に分からないが、修行前と後では言動や立ち振る舞いが確実に変化しているのである。
 それは、枝葉(肉体)だけが成長したのではなく、眼に見えない「根源的な叡智」も同時に成長している故である。このことを多くの人々が意識し、真剣に考え始めた瞬間(とき)、長い時間をかけて実践してきた千日峰行が畢竟(ひっきょう)に昇華するのである。

 弱冠、強引かもしれないが、この修行は、子育てに良く似ているのではないか、と最近感じるようになった。
 親の心象には日々「我が子は本当に立派に成長するのだろうか?」「これを続けてプラスになるのだろか?」「この状態がいつまで続くのだろうか?」という愚問が頻繁に去来する。しかし、子どもたちは、その思いとは裏腹に野球や水泳、相撲、マラソン、勉強などを半ば強制もありながら黙々とこなしていく。行事が終わり、暫らくして子どもたちを凝視すると、どこか違っていることに気づかされる。本当に弱冠であるが、「根気が付いた」「上下の対人関係がうまくなった」などの変化が見え隠れしている。これは、どこか比叡山の千日回峰行に似ているように感じる。

 戸惑いや逡巡を抱えながら、親と子が一つのことに集中して取り組んでいく。この延長線に「成長」と呼ばれる親子共々の、目に見えない変化が付いてくるのではないだろうか。瞬間の明滅ではなく、積み重ねの結果として子どもを見ることが大切なのだろう。それが子どもたちの「根源的な力」を養っていくことにつながっていくのだと思う。
 我が家の子どもたちに「大阿闍梨」の称号を与える日が来るかどうか、それはわからないが、しかし、これからも「少しの変化」を大切にしながら、あせらずに子育てを実践していきたいと思っている。

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