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■環境社会学


 ■作家の芦沢一洋氏はどこかで、「お気の毒に、でもフライフィッシングの世界へようこそ」と言っていた。これは恐らくフライフィッシングに内在する魅力と魔力、失望といった事象を適切に語った言葉なのであろう。
 フライフィッシングにとって、「失望」を象徴する事柄はなんであろうか。思い当たる事象の一つは、公共事業による河川環境の破壊である。現在、治水対策の名の元に河川改修が各地で行われ、その賛否を問う議論も至る所で交わされている。それらの議論に耳を傾けてみると、殆どは、水と油のようにはっきりと2分されている場合が多い。
 「
100年に一度の大災害に備えてダム建設は必要である。自然環境は近代技術で最大限保護していく」
 「動植物や自然環境は一度破壊されると再生が難しい。無益な開発は反対である」というものである。
 前者の議論はいわゆる「近代技術主義」と呼ばれ、後者は「自然環境主義」と呼ばれている。
 ■これらの議論に徹底的に欠落しているものは、当該地域に住む居住者の立場から問題のあり方を考えようという視点である。人々の生活上の知識や地域固有の伝統、自然と人間との関わりを理解し、その中から諸問題に対処するという方法である。
 この視点は「生活環境主義」と呼ばれ、現在、多くの地域で広がりを見せている。

 古から人々は、川や山での猟を維持するために乱獲を避け、村落共同体で自然環境の保全に取り組んできた。このような人間と自然の営みの延長線上に自然災害の防止や自然環境の保全が存在していたのである。このことをもう一度見直していく必要があるのではないだろうか。
 ■現在の悲劇は、近代化による多様な自然の破壊が、多様な人と自然とのつながりを破壊し、川や山などを通じた住民の営みをも衰退に導いてきたということにある。この隙間に開発の動きが巧みに食い込み「近代技術主義」と「自然環境主義」の対立を激化させてきたと考えることができる。
 人の営みの影響で破壊された自然環境は、自然と人の営みの中で再生を模索していくしかない。 このなかで「生活環境主義」は、私たちに準備されている最善の方策なのではないだろうか。 人間と自然との結節点がここにあるように思われる。



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