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富岳百景の中の太宰治


 1939年初秋、太宰治は破滅に瀕した生活を建て直すため、富士山麓へ転地旅行を行います。小説「富嶽百景」はその模様を綴った紀行文です。
 この時代、太宰は井伏鱒二の世話で高校教師と結婚をし、生活の安定と希望を迎えます。「人の情に少年の如く感奮した」時期でした。
 太宰治の作風は、生涯を通じて3期に分けられるといわれています。第1期は、左翼運動から転向した自虐的な時代。第2期は結婚生活を迎えた健全な人間信頼の時代。第3期は破滅型、無頼派と呼ばれた晩年の時代です。
 この作品が書かれた第2期は、希望と絶望を繰り返していた彼にとって、心の安らいだ時代だったのだと思います。
 「3,779メートルの富士山と、立派に対峙し、みじんもゆるがず、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っている月見草はよかった。富士には、月見草がよく似合う」とは有名な一節ですが、この富士と月見草の関係は、太宰自身の心象をそのまま隠喩したものではないかと何時も感じます。
 巨大で万人が美しいと絶賛する富士は「権威や権力」の象徴であり、その片隅にけなげにすっくと立っている月見草は、太宰自身だったのだと思います。
 ある日、逗留中の太宰を数人の青年達が尋ねてきます。青年の一人に「先生」と呼ばれた太宰は、こんな事を思います。「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体もよごれて、心も貧しい。けれども、苦悩だけは、先生と呼ばれていいくらい経てきた。たったそれだけ。藁一すじの自負である。けれど、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。わがままな駄々っ子のように言われてきた私の、裏の苦悩を、一体幾人知っているだろう」。
 この一節は、太宰特有なニヒルな言い回しですが、しかしこの文章は、太宰の自我を強く表現していると私は感じます。それは「矜持」と「鬱屈」という言葉で言い表すことができると思います。「矜持」とは自分の能力を信じて持つ誇りのことであり、「鬱屈」とは気のふさぐことです。彼の生涯は、この繰り返しだったのだと思います。
 純粋に生きることを考え、貫き通そうとし、結局情死した太宰にとって「富嶽百景の地」は、理想に近い一番の場所だったのかもしれません。
 最近「太宰のデカダンとペーソス」に魅せられる熱狂的な女性ファンが多くなっていると聞きます。しかし、私が太宰に共感するものは「放蕩」や「無頼」ではなく、矜持と鬱屈の持続性ということです。
 新しいものにチャレンジする時、自分を見失いそうになった時、太宰の言う「藁一筋の自負」を大切にしようと何時も感じます。

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